荒ぶる開拓魂の彫刻家 砂澤ビッキに触れる

アイヌ

砂澤ビッキ氏をご存知ですか?

筆者は名前だけは知っていました。アイヌの彫刻家「砂澤ビッキ」

木の彫刻を追いかけていると度々耳にするその名前。作品は見た事なかったのですが興味があり調べていくと何やら北海道の音威子府村(おといねっぷむら)にミュージアムがあるとの事。

ここで簡単なビッキ氏の略歴を

砂澤 ビッキ(1931~1989)

・1931年(昭和6)3月6日 ●父・砂澤市太郎(トアカンノ)、母・べラモンコロの子として旭川緑町15丁目に生まれる。本名は恒雄(ひさお)。幼少からビッキ(カエル)の愛称で呼ばれる。

・1953年(昭和28)22歳 ●父・市太郎の死後、母の住む阿寒湖畔に滞在。その後、鎌倉に移住。文学青年等のサークルに入る。モダンアート協会展を中心に作品を発表。(1962年会員、1964年退会)。                 

・1959年(昭和34)28歳 ●旭川市に戻り、北海道アンデパンダン展の作家・五十嵐広三、菅原弘記、平間文子らとの交友が始まる。モダンアート協会展を中心に作品を発表(1962年会員、1964年退会)。

・1960年  (昭和35)29歳 ●「動物・ANIMAL」をテーマに制作。
・1964年(昭和39)33歳 ●「TENTACLE」をテーマに制作。

・1978年(昭和53)47歳 ●個展会場で音威子府高校校長・狩野剛氏と出会い、音威子府筬島に移り、小学校の廃校をアトリエとする。これより以前は札幌にアトリエがあったようです。

・1980年(昭和55)49歳 ●音威子府駅前にトーテムポール状の作品「オトイネップタワー」を建てる(後に老朽化のため撤去。2000年8月に現在のエコミュージアムおさしまセンター駐車場に設置。2012年11月23日、永久保存するため切断し館内に保存公開)

・1983年(昭和58)51歳 ●カナダのブリティッシュ・コロンビア州に渡る。ハイダ族の彫刻家ビル・リードと交流。

・1986年(昭和61)55歳 ●札幌芸術の森野外美術館に高さ5・4mのクロエゾマツで制作した「四つの風」を設置。

・1989年(昭和64/平成元年)●1月「現代作家シリーズ”’89 上野憲男、砂澤ビッキ、吹田文明展」(神奈川県立県民ホールギャラリー)の会場にて、病を押して展示指導。同展オープニングに出席後、1月25日、札幌愛育病院にて骨髄ガンのため逝去(享年57歳)

これを書いている2022年現在、死後33年も経っている、、かなり後追いの調査です。

出典:砂澤ビッキ記念館

音威子府村へGO

北海道一人口の少ない村・音威子府村(おといねっぷむら)。

2022年5月末現在の人口:679人です。他の地方自治体と同様、消滅、吸収合併の危機を常に抱えている村になります。

1978年、現代彫刻家の砂澤ビッキは大きな木を求めて音威子府村へ移り住みました。
今も荒々しい木々が広がる北海道大学中川研究林を望み、穏やかな畑風景が広がる中で、ビッキは創作を続けていました。

その際、小学校の廃校をアトリエにしていましたが、そのアトリエが今はミュージアムになっています。こちらにGOします。

札幌からは高速道路を飛ばして約4時間。高速道路も途中で終わります。

高速道路がなくなってしまった。。

これがアトリエ3モアだ

劇的な死から15年、当時の面影を残した「アトリエ3モア」がビッキの数々の作品とともに、音威子府村の教育・文化・芸術の発信地として再現されています。

3モアの由来は元々札幌にあった2ヶ所のアトリエが、「モア」→「モアモア」だったので3番目のアトリエという意味で「3モア」という事です。

しかし、風が強すぎますね。この辺り。私自身が吹っ飛びそうです。

小学校の廃校をアトリエにし、今はミュージアムになっています。
バスは1日5本。車が無いと生活は出来ません。

荒ぶりまくってる

早速突入です。ビッキの人柄を表すような木彫りの看板がお出迎えしてくれます。

「考える人・動物の時間」(1955年)荒ぶりまくってます。今から67年前にこういう事やられるとかなわないです。ちょっと50’sも感じる絵ですね。

エビが無茶苦茶なことになってます。荒ぶる可動式木彫りです。

出典:砂澤ビッキ記念館

革新的すぎる

「午前3時頃にフッとふっきれたものを感じ何かを発見することがある」。芸術家のひらめきともいうべき、魂の独白をするビッキ。

さすがです。筆者なんか午前3時頃になるとボーとして何もひらめきません。眠いだけです。

「午前3時の部屋」と名付けられたアトリエには深夜に1人ビッキが製作をする雰囲気を感じられます。



展示してある道具を見ると、大木を手で割って製作してたんですね。

これ、すんげぇパワーが必要ですね。ビッキはかなりの大男でハンフリーボガードが好きだったようです。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ビッキ死後に取ったデスマスク。

「午前3時の玩具」(1987年)午前3時に走り抜ける夜行列車、アトリエ中を飛び回る蛾。そこから着想を得てビッキの小宇宙が炸裂してます。ヤバいです。木彫りでこんなもの作って。

出典:砂澤ビッキ記念館

結論

なぜ今までちゃんとビッキをチェックしていなかったのか?自分の無知を恥じる位、震える。

山場がありすぎて1回でとても紹介できませんでした。もともと木造の小学校の校舎ということもあり、広大な場所では無いのですが、1つ1つの濃度が濃すぎます。

年を取ってきてなんだか色々知ったような気がしていたのは勘違いで、何も知らない筆者でした。

すごく小さな村で、「資源は木しかない」環境が彫刻家にとっては天国だったんだろうな〜という事が、来るとよく分かります。強烈におすすめの場所でした。

ミュージアムの説明員、河上さんがビッキと常に行動していた人物で色々な話が聞けてラッキーでした。

その中で特に印象的な話が。

ビッキがまだ駆け出しで鎌倉に住んでいた時、色々な宝石商や美術商に片っ端から連絡して、自分の作品を取り扱ってもらおうと営業していたのですが門前払い。

最後にダメ元で、有名な銀座和光に営業に行った所、当時の社長夫人が、
「あなたこれ良いわね、うちのオリジナルラインで出しても良い?」と初めて認められたそうです。
ビッキはそれ以降「和光に足を向けて寝れない」と常々言っていたようです。

ビッキも駆け出しの時は認められようと必死だったのが共感できますし、和光の奥様もモノの本質を見る審美眼がやっぱりあったんだな〜と感動しました。銀座和光はだてじゃない。

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