音威子府(おといねっぷ)とは?
北海道一人口の少ない村・音威子府村(おといねっぷむら)
2022年5月末現在の人口:679人です。他の地方自治体と同様、消滅、吸収合併の危機を常に抱えている
村になります。
ここにあります。↓
出典:ゼンリン いつもNAVI
札幌からは高速道路を飛ばして約4時間。高速道路も途中で終わります。
すでに倒壊してます。
オトイネップタワー・・・(1980年)1980年9月6日に音威子府駅の前に建てられたトーテムポール
(木製)
・上部からキツツキ=林業
・シンボルマーク=商工会・国鉄・農協のマーク、
・3本の支柱=過去・現在・未来
・牛=酪農
・ビート・馬鈴薯(ジャガイモ)=農業
の様に音威子府村の産業を表すシンボルタワーでした。
出典:砂澤ビッキ記念館
元は高さ15mほどあったが1990年4月8日、強風により崩落しています。音威子府は風がめちゃくちゃ強いのです。
↓これが当時の「オトイネップタワー」
残骸は2013年11月28日から砂澤ビッキ記念館の展示室に移設し関連資料とともに展示中。
その他の部位は記念館横のD型ハウスに保存。
割れちゃってます。木なんで。
出典:砂澤ビッキ記念館
作ったのはこの方々
彫刻家の砂澤ビッキ氏がデザインし、佐渡富士夫 氏、高木美智男 氏、佐々木美鶴 氏、有田滋路 氏の4人がかりで制作しました。ビッキが手掛けたのは牛の部分。
↓ビッキの詳しい説明はこちら
「荒ぶる開拓魂の彫刻家 砂澤ビッキに触れる」
出典:砂澤ビッキ記念館
樹齢300年のヤチダモを北大中川研究林が提供(音威子府の巨大な山林は北海道大学の研究林なんです。)さすがすぎますね、北海道大学。
ビッキの音威子府での制作には必ずと言って良いほど北大研究林の木が提供されていたようです。サイズが大きいものを切り倒してアトリエに運ぶので1人では当然不可能。
村人の若い衆が毎回無償で協力して伐採を行なっていました。すげぇ時代です。また、ビッキが村に理解され、皆が作品の制作に協力していた事が良く分かります。
出来上がった時はお祭り騒ぎ
1980年9月6日に完成。完成当日はアトリエに村民約250名が集合。見物客を含めると1000人以上の方々が参加されたようです。
当時の村の人口は約2000人。村人の半数以上が参加し、全国からも反響のあった一大イベントでした。
↓ビッキなんか表彰されちゃってます。
村にとっては一大イベントだったのでしょう。皆の嬉しそうな顔が印象的です。
出典:砂澤ビッキ記念館
人力で運搬
アトリエから音威子府駅前まで約7kmを村民約250名の人力で運搬されました。完全に神輿(みこし)扱いです。途中で小中学校のブラスバンドも合流し、それはそれは楽しい催しですね。
音威子府駅前に到着後、重機で建立させて最後に餅まきまでしてます。「神輿渡御+新築の建前儀式」をしちゃってる。これはよっぽどの出来事だったんですね。
出典:砂澤ビッキ記念館
あ、よく見ると祭りの半纏着てますね。これ、完全に神輿渡御ですね。
結論
タワーは倒壊したがビッキの芸術はまだまだ続いている。
ビッキはこんな言葉を残しています。(自然のままの樹木は生きているので)
「生きている物が衰退し、崩壊してゆくのは至極当然であるそれをさらに再構築していく。自然はここに立った作品に風雪という名の鑿(ノミ)を加えていくはずである」
要するに、作品が崩壊した後の朽ちていく様も作品のウチだと。
木でできた作品は全て最終的に朽ちて自然に還ります。誰も環境とかエコとか言ってない時代にこの辺の尖った世界観はアイヌ民族の文化・信仰からおそらく来ていたのでしょうね。
うーん、全部繋がっている。
ミュージアムの説明員、河上さんがビッキと常に行動していた人物で色々な話が聞けてラッキーでした。
その中で「ビッキは何本もタワーを建てたが、タワーが倒壊する瞬間を見た人は誰もいない」という都市伝説を聞きました。オトイネップタワーは駅前に建っていたのですが、倒壊したのは深夜誰もいない時だったようです。
まぁ、大半のタワーは設置している場所が人が全然いない場所だし、音威子府駅前は田舎すぎて深夜は誰もいなかったからからでは?みたいな疑問は少しありますが、そんな話も神秘的です。
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