稚内へ
日本最北端の街、稚内(わっかない)。
大正12年(1923年)、稚内と樺太(現サハリン)を結ぶ連絡船が運航を開始し、北方交通の要衝として港は栄えて行きました。
そこに港のシンボル「古代ローマの神殿のような防波堤ドーム」が建設されました。
・北海道の冬でもランニングやキャッチボールがしたい方
・スケボーをする場所をお探しの方
・北海道のロケ地をお探しの方
そんな方たちにぴったりの、素敵な施設が稚内にございます。そんな北防波堤ドームがなぜ美しいのか?を深掘りします。
これが北防波堤ドームだ!
正式名称:稚内港・北防波堤ドーム(わっかないこう・きたぼうはてい)海岸線に突然出てきます。美しい、、しかしなんでこんな形なんでしょう?
なぜ防波堤が、古代の神殿風のデザイン?
な、長い!
海の真横にあります。
そもそもなぜ出来たのか?
かつて樺太の一部が日本領だった時代、稚内港には樺太の大泊(現コルサコフ)と本斗(現ネベリスク)とつなぐ航路が開設され、多くの人や貨物で賑わっていました。
出典:稚内の楽しみ方より
しかし、その一方で稚内港には一年を通して強風が吹き、小さな防波堤しかなかったことから、
人々が高波にさらわれて海に転落する事故が相次いでいました。
港の人たちを高波から守るため半アーチ型の北防波堤の建設を開始、5年をかけて完成しました。
昭和6年(1931年)に建造。って90年以上前!スゴ
・全長427メートル、高さ13.6メートル、70本の円柱が連なる。
・昭和13年、ドーム前に「稚内桟橋駅」が開業。
元は今の道路部分に線路が走っていた!
1923年(大正12年)当時は、鉄道の終着駅から船着場までの1.6㎞を、冬でも徒歩で歩いていました。その苦労を解消するため、
・1928年(昭和3年)に稚内港駅(現:稚内駅)まで鉄道が延伸。
・1938年(昭和13年)日にはドーム前面に「稚内桟橋駅」が開業。
このことから「北防波堤ドーム」は防波堤だけじゃなく、現在道路になっている部分は、通路・ホームとしての駅舎の機能も果たしていたのです。
出典:稚内ブランドより
そしてこのドームができたおかげで、乗客は強風や高波を心配することなく安全に列車から連絡船への乗り継ぎが可能になりました。
だれが作ったのか?
一人の男性が稚内築港事務所に赴任してきます。
それが当時、北海道大学を卒業してわずか3年しか経っていなかった土谷実氏(当時26才)でした。
若い!26才でこんな仕事を任されるとは、、さぞかし優秀だったんですね。
出典:生涯一設計士・佐々木繁の日々
なぜこんなデザインになったのか?
お役所の土木工事は、今でこそ建設業者が施工しますが、当時は道や国の職員が作業員を雇って直接工事を行うのが普通でした。
土谷氏も図面書きから強度計算まですべて一人で行い、実際の工事も第一線に立ち、現場の指揮にあたったそうです。
長い現場の経験から生まれたわけではなく、若い一人の青年が既成概念に囚われることなく自由奔放に設計したからこそ、このような斬新なデザインの防波堤になったのでしょう。
要するに「若い人の裁量にかなり任せたデザイン」だったからこのようなデザインになったのです。
若い感性が尖ってたんですね〜現代で見ても新しい!
結論
ベテランが口出さずに若者に全部任せたら港に尖ったデザインのドームが出来ちゃった。
公共の施設は「ユニバーサルデザイン」といって万人に受ける必要があるため、さまざまな方向から意見を集めてデザインを決めます。なので本来、あまり尖ったデザインは出来ないものです。
でもこのドーム、かなり尖っております。
90年以上前にこのデザインはすごい!
建設中のドーム
出典:稚内ブランドより
終戦後、サハリンとの連絡船はなくなり、ドームは本来の役目を終えます。長年、過酷な自然環境にさらされ、コンクリートの劣化などが進んだことから、昭和53年から3年をかけ全面的な改修工事が行われました。
そんなドーム、平成13年には「北海道遺産」に指定されています。
現在は年間を通じさまざまなイベントが開催され、映画やテレビCMの撮影地として利用されるなど「最北の玄関口」のシンボルになっていました。
・昭和20年(1945年)8月9日、国境警察がソ連兵から襲撃を受け、当時南樺太に住む約42万人の日本人が、本土へ帰るため樺太(現サハリン)の南の果てを目指しました。 ・同年8月23日には本土へ向かう最後の連絡船「宗谷丸」が大泊港につき、4,700人の方が本土へ引揚ることができました。 ↑残りの人どうなったんでしょうね、、??残留? サハリンの領土をロシアに取られ、連絡船もなくなりその役目を終えたドームは美しくも悲しい歴史を感じました。
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