二風谷のアイヌコタンに伺いました。
以前からアイヌ文化に詳しい知人たちから「二風谷に行ってみると良いよ」と助言頂いていました。
今回、近くに行く予定があったもので少し足を伸ばしてみました。
筆者の住む札幌から高速に乗り、2時間かからない位。苫小牧方面の奥に「平取町/びらとりちょう」があります。その中のアイヌ集落跡地(コタン)が「二風谷/にぶたに」です。
アイヌコタンの中には博物館や資料館、本格的な民芸店や情報センターなど様々な施設があります。
その中で今回は二風谷アイヌ文化博物館に突撃です。
出典:二風谷アイヌ匠の道
二風谷は盆(イタ)が有名
二風谷は盆(イタ)と呼ばれるお盆が有名で、美しい紋様の入ったものは主に祭事に使用されていました。
色んな作家の盆。紋様が美しいです
このお盆は食事を運ぶためのお盆では無いですが、実際の生活で使用する
・食品を保存する鍋
・食事をよそうオタマ
・食器
もほとんど木製だった事が分かります。それ以外の生活民具もほとんどが「木製」です。
女性が使う縫い針入れ。当時金属の針は貴重品
1本から削り出している
この船なんか1本の木をくり抜いて作ってます。今作ろうとしたら幾らかかるんだろう、、??
試しにちょっと端を持ってみたらめちゃくちゃ重いです。現代のカヌーやカヤックの様に全然軽くありません。
1本の木をくり抜いて作っとる、、すげー
墓標も木なので朽ちる
これ、アイヌの人たちの墓標になるもの。
右/男性用墓標<オッカヨクワ>・・・槍の形
左/女性用墓標<メノコクワ>・・・針の形
墓標も木です。木なのでそのうち朽ちて倒壊します。ん、、?なんか以前聞いたことある様な、、??
ふと気がついた
なんでこんなに何でもかんでも「木」で作ったもので生活していたのでしょうか??同時期の日本には当然、陶器や石の加工、鉄製品の加工技術も入ってきていました。
(北海道と琉球は製鉄・鋳造技術を持たない地域であったため、基本的には必要とする鉄・鉄器は外部から入手する必要があったという共通点がある。)
なぜそれらの丈夫な長持ちする素材を積極的に用いて生活しなかったのでしょうか??
宝飾品や刀などは交易で得たもの
それはアイヌ民族独自の「自然観」によるもの
アイヌ民族は、まず自然があって初めて自分の暮らしがあると考えています。
同時に人間と自然の立場は対等なものであるとも考えています。
要するに対等なので「自然から頂いて、自然に戻すサイクルを重要視していた。」
よって、自然から取れる木という素材を最大限利用するという生活スタイルになったという事が分かります。
そうか、「彫刻家:砂澤ビッキ」が木にこだわって、「朽ちていく様も芸術」と言っていたのはこのアイヌの文化的背景があるからなんだ!
※過去記事参照
<荒ぶる開拓魂の彫刻家 砂澤ビッキに触れる>
<音威子府駅前にはオトイネップタワーが存在していた>
結論
現代人は「朽ちない」事にこだわっているが、アイヌの人々は「朽ちる」事にこだわっていた。
現代の生活をしていると、屋外でも錆びない「ステンレス」の素材やネジを使用したり、乗り物には軽い金属やプラスチックを使用したり、自転車はアルミやカーボンだったり、墓は石だったり、、
とにかく「丈夫で長持ちすること」を最重要と捉えて生活しています。
アイヌの人々は古来より「自然から得て、自然に帰せるもの」という自然観があるので、必然的に木の素材に囲まれた生活になっていった事がよく分かりました。
まさにエコ。SDGSだからオーガニックの素材が売れそうとかそういう事じゃない。商業が絡んでいない、しかもずっと昔から既に実践されている生き方。
実は現代人の目指す1つの方向性ってアイヌ民族なんじゃ??と感じずにはいられません。
昭和生まれの人なら幼い頃遊んだ事もある、「カンカン下駄」(本来は缶詰などで作る)もアイヌの人たちは貝殻で作ってます。発想が地球に優しすぎます。
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